糧食研究会の歴史
1.創業
(大正8年/1919年〜)
食糧問題に糧食研究会設立
大正3年(1914年)、第一次世界大戦勃発とともに軍需産業が盛んになる。軍需優先の影響を受けて米の生産が急激に減少、米相場が暴騰して大正7年には全国的な米騒動が勃発した。
米騒動を契機に食糧問題の重要性を強く認識した貴族院議員の林博太郎伯爵と東京帝大の稲垣乙丙博士は日本の食糧問題研究の構想を固めた。
大正8年(1919年)6月、林・稲垣両名は有識者26名を集め、国民糧食の安定及び改良を計ることを目的とする討論・研究を行う会として「糧食研究会」を設立。
発足当時の顔ぶれは、官界・政界・財界・学界のトップクラスが集まっており、名誉会員5名、評議員30名、特別会員及び普通会員を会わせると247名であった。名誉会員の一人である渋沢栄一男爵は本会の主旨に大きな共鳴を寄せ、財界方面の有力者を紹介して協力した。この年の11月までに受けた寄附の主なものは次の通り。
財団法人森村豊明会 1万円
古河合名会社 1万円
三菱合資会社 1万円
三井八郎右衛門男爵 1万円
会の主要な出来事
国内外の出来事
明治44年(1911年)
鈴木梅太郎博士がビタミンB
1
を発見
大正元年(1912年)
富山県で米騒動。米の値上がりで一家離散が増加。タイタニック号沈没
大正3年(1914年)
第一次世界大戦勃発
大正4年(1915年)
米価の値上がり防止を狙い、米価調節令公布
大正5年(1916年)
大正デモクラシー運動。チャップリンの映画が好評
大正6年(1917年)
2度の革命を経てソビエト政権樹立
大正8年(1919年)
6/20
稲垣乙丙博士は本会設立について東京銀行クラブで講演
6/28
発起人会開催(築地精養軒にて)
事務所を日本勧業銀行構内の勧業債券月報社内に置く
10/28
評議員会にて東京帝国大学総長宛3万円の奨学金寄附を決定
機関誌「糧食研究会」第1号を発行
12/9
東京帝国大学総長より3万円寄附の感謝状を受ける
大正8年(1919年)
第一次世界大戦終結。白米小売価格暴騰
稲垣乙丙
(1863年(文久3年)〜1928年(昭和3年))
長野県出身。本姓は柴田。稲垣重為の養子となる。
松本師範、東京師範を卒業し故郷で教員を勤めていたが、1887年(明治20年)上京して農科大学(1919年帝国大学令の改正により東京帝国大学農学部となる)を卒業、1897年東京高等師範教授、1900年農学博士となりドイツ留学。帰国後、盛岡高農教授、1906年農科大学教授となる。
晩年糧食研究会を起こし、人口食糧調査会委員となる。
(世界人名事典(東洋編)・東京堂出版より)
設立当時の糧食研究会の会則
糧食研究会々則(抜粋)
第1条
本会は國民糧食の安定及改良を計るを目的とす
第2条
本会は前条の目的を達せんが為に時々集会を開催して討論研究し特殊の研究は之を東京帝国大学及其他適当と認むる所に委託し研究の結果世に実行を勧む可きものは之を宣伝す
第3条
本会の会員は名誉会員、特別会員及普通会員とす
第4条
普通会員は会費年額金3円づつ若くは一時金50円、特別会員は一時金100円以上を出すものとしの此の会費を以て支弁し難き特殊の費用は寄附金を以て支弁するものとす
第5条
本会は随時集会を催すの外毎年一回総会を開き会費の報告をなすものとす
第6条
本会は随時会報を発刊し会員に頒つ
第7条
本会の役員は会長、副会長、幹事及評議員とす
第8条
評議員は会員の投票により10名以上を選挙するものとし、会長、副会長及幹事は評議員之を選挙するものとす
第9条
(略)
第10条
(略)
第11条
(略)
第12条
本会々則の改正は評議員会の決議を経べきものとす
糧食研究会
会長 伯爵 林博太郎
副会長 子爵 前田利定
幹事長 農学博士 稲垣乙丙
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